| 柔和な人は幸いなり |
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| 作家 城山三郎 城山三郎という作家がいます。2007年3月22日に亡くなっています。亡くなってちょうど1年がたったことになります。多くの方は、「 硫黄島に死す」という短編でご存じかも知れません。「硫黄島に死す」の主人公は、ロスアンジェルスオリンピックの馬術で金メダル を取った陸軍将校で硫黄島で戦死しています。戦死に至るまでの遍歴が、馬への想いや知己を得た欧米の馬術者とともに書かれていた と思います。新潮社文庫から出ていたこの書名の本には、たくさんの戦争にまつわる短編が書かれていました。戦争の中でのひとの生 き方を書いた短編集でした。 本当に生きた日 今回読んだのは、その城山三郎の「本当に生きた日」。1986年に琉球新報などに掲載されたものらしいのですが、2007年に単行本として出版され、私は新潮文庫から2008年4月に出版されたものを読みました。単行本になったのは著者没後です。 その中に「柔和な人は幸いなり」という言葉が出てきます。マタイの福音書5章に出てくる聖書の言葉だそうです。ここからはしばらく http://www1.ocn.ne.jp/~koinonia/kiyofu/kiyofu11saiwai1.htmからの受け売りです。 マタイ5章には イエスはこの群衆を見て、山に登られた。 腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 そこで、イエスは口を開き、教えられた。 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。 柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。 憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。 心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。 義のために迫害される人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。 私のためにののしられ、迫害され、 身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、 あなたがたは幸いである。 喜びなさい。大いに喜びなさい。 天には大きな報いがある。 あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。 と書かれているそうです。 ちなみに私はキリスト教信者ではありません。ですから、さっぱりちんぷんかんぷん。 ただ、「柔和」というのは謙虚さを意味するようです。英語ではhumble。謙遜な、偉ぶらない、慎ましやかな、質素な、みすぼらしい 、劣等感を感じるというような意味です。 「本当に生きた日」の主人公は素子。平凡な主婦です。家事に精を出し、干した布団がうれしいという夫のために布団干しを楽しみにしている。それが夫の単身赴任に伴い、昔の友人のルミに再会します(ルミの計画的再会です)。ルミは、素子とは対照的。ルミのモ ットーはサクセス(成功)。そしてそれを達成するための合い言葉はMNN(メンター:引たたててくれる後援者、ネットワーク、ニュー スバリュー)。ルミは素子にこのMNNを教え込んで自分のアシスタントにしようとします。 そんなところから物語が展開するのですが、素子を口説こうとした男性が色紙に書いた「柔和な人は幸いなり」という言葉が、この小 説のテーマになっているように思います。素子が次第に「サクセス」の流れに翻弄される、それを押しとどめようとしたのが、素子自身の謙虚さにある、「サクセス」だけが生き甲斐ではない、「サクセス」だけが「本当に生きた日」ではない、そんなことを城山三郎 は言いたかったように思います。 単なる老化か?あるいは年の功?年輪? 聖書はやっぱりよく判りません。でも、このマタイ5章はなかなか含蓄のある1節と思います。humbleを柔和と訳すのはどう かなという気はします。柔和と言う言葉のイメージとは違うことを指しているように思うからです。しかし、この一節に含蓄を感じるのは私が年をとったためかも知れません。私がhumbleに思っているのは、実際にあることをそのままに受け入れるというような意味です。まあ、あきらめかも知れない。でも、そこに何らかのすばらしさを見いだせるかも知れない、自分を引いてみることによってそこに、想像以上の世界が開けるかもしれない、そんなメッセージがこの一節に込められているように思えます。 出生前診断というがあります。子どもの病気を見つけて、病気がある場合は妊娠中絶するかどうかを考える。それが現実の出生前診断の姿です。中絶を選択するのも、一つの現実を受け入れる方法でしょう。そのことを否定する気持ちはありません。しかし、一つの命を授かった、そのことの重みを受け入れるのも、もう一つの選択肢でもあります。 そんなことを考えるのは、私が単に年をとったためかも知れません。若い人は「サクセス」に向けて走り続ける、それもまた一つの「本当に生きた日」と言えるでしょう。 |
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